『いまここTOKYO』は東京支部の会員のための支部報誌として2006年5月よりスタートし、この1月の冬号で通算46号目を迎えます。支部報ではこれまで、情熱を持って活動を続ける会員の方々を沢山取材してまいりましたが『いまここ TOKYO』編集部隊である広報部にもまた、情熱と責任感を持った部員が多く在籍しています。
『いまここTOKYO』を新たな視点で読んでいただきたいという思いから生まれたこの企画。今回は広報部の熊野秀一さんにスポットをあて、これまでの人生、そして校正について語っていただきました。是非ご一読ください。
『いまここTOKYO』は、産業カウンセラーであり東京支部の会員でもある広報部員が各記事を分担し、取材・編集にあたっています。その中で熊野さんは主に、校正の担当として活躍しています。
校正とは、出版物を世に送り出す前に、原稿に誤字脱字がないか、表記の統一がされているかなどを確認する仕事です。一見目立たない仕事ですが、文章の質を確保するため、そして読者に文章をストレスなく読んでいただくためには、欠かせない仕事です。
多くの支部報・編集者が、熊野さんに生原稿および初校の校正をお願いしています。昨年の秋号では、14の記事の校正を熊野さんが務めました。
熊野さんは大学卒業後、財団法人産業開発青年協会のインドネシア派遣に応募し、1年2カ月、養蚕の仕事に従事しました。その後、青年海外協力隊1966年度第3次隊、養蚕隊員として2年間フィリピンに滞在しました。
青年海外協力隊としてフィリピンでの桑畑造成に携わっていた頃の熊野さん。この地では今でも養蚕業が続いています。
60年代当時は、海外で働くという選択肢が今よりもずっと珍しかった時代。ですが、「生まれ故郷の北海道だけでなく日本や世界をもっと広く見てみたい」という好奇心が、熊野さんを突き動かしました。高校時代に東京オリンピックの開催が決まったことも、世界がより近くに感じられた出来事でした。
帰国後、熊野さんは、海外技術協力事業団(現・国際協力機構)に入団し、主として青年海外協力隊事業に30数年従事。気が付けば、7カ国に9度の開発途上国で過ごした期間は、合計約20年になっていました。そして退職後、青年海外協力隊員の帰国後の進路についてカウンセリングを行うという、まさに国際協力に尽力をした半生を送りました。
青年海外協力隊員の進路相談カウンセラーになって1年が過ぎたころ、「自分のやり方が誤っていないという確信を得たい」という思いが芽生え、産業カウンセラーの勉強を始めました。
この「正しいかを確認したい」という発想、現在の校正にも至る、熊野さんならではの価値観です。
一見共通項が見えない、国際協力の半生と校正の現在。しかし実は、「在外事務所への事務連絡」、そして退職後にボランティアとして「外国人へ日本語を教える」という経験が、現在にいたる、熊野さんの校正への興味へとつながっていました。熊野さんが海外技術協力事業団(現・国際協力機構)に入団した1969年当時、アジア・アフリカ・中南米にある在外事務所との連絡は、主に航空郵便のやりとりでした。現在のようにメールはもちろん、通信事情が発達していない当時、航空郵便のやりとりには一往復約1カ月以上かかりました。受信者とのやりとりを何往復もしないように、手紙を受け取った受信者が指示や連絡を納得するような文章を、発信者側として作成する必要がありました。当時、新人だった熊野さんが起案した文書は、毎回、上司によって真っ赤に直されたそうです。
そして、国際協力機構退職後在住の八王子市で、ボランティアとして外国人に日本語を教えていた時には、「間違ったことを教えては申し訳ない」という思いから、通信教育で日本語教授法を勉強しながら、教えていたそうです。
国際協力機構 青年海外協力隊事務局の進路相談カウンセラーの任期を終え、引き続き社会の役に立ちたいと考えていた矢先、熊野さんは、日本産業カウンセラー協会 東京支部で、広報部員募集の記事を見つけました。
かつて、真っ赤に直されながら伝わる文章を作り続けた経験、正しい日本語を意識し教えた経験が、頭をよぎりました。「校正という立場で役に立てるかもしれない」。熊野さんは、家族の後押しもあって、広報部員への応募を決めました。
熊野さんの職務は、単に誤字脱字のチェックだけではありません。広報部では、基本的に共同通信社『記者ハンドブック 新聞用字用語集』(以下、「用字用語集」とします)の表記を基準として文章を作成しています(ただし、文脈によっては用字用語集とは別の表記を採用することもあります)。そのため、記事の表記が用字用語集から外れていないか、そして内容を分かっている人だけが分かるというような記事になっていないか、という視点での確認も併せて行っています。
自宅にて校正作業中の熊野さん。
2014年に胆石と胆のうの手術で入院したときも、
病室のベッドにパソコンを持ち込んで校正をしてくれました。
校正作業時間は2ページの記事の場合、1件につき約30分。
時間に余裕のあるときは翌日にもまた確認するそうで、熊野さんのきちょうめんな仕事ぶりがうかがえます。
時に、「用字用語集」の具体例を読んでも、どの用法が正しいか判断に苦しむときがあり、そこに校正の難しさを感じるといいます。しかし一方、明らかな変換ミスや脱字に気が付いたとき、特にそれが2度目3度目の読み返しで気が付いたときには、「念のために読み返してよかった」と心から満足するという、マニアック(?)な楽しみもあるようです。
校正への意識が高まるにつれて、さまざまな出版物の文章や、テレビやラジオのアナウンサーが話す日本語についても、その使用の正誤を意識するようになったといいます。
熊野さんは現在、3人のお孫さんのおじいちゃんとして、働く3人の娘さん達の育児もサポートしています。お孫さんが体調を崩して保育園や学校を休むとき、仕事を休めない娘さんに代わって面倒を見ています。多いときは週3回、応援要請が入ることもあるそうです。
東京支部 広報部の活動とプライベートを両立するためのコツは、隙間時間を活用すること。
育児サポートに加え、地域の介護施設でのお話し相手ボランティアに携わるなど、多忙な日々を送る熊野さんですが、校正作業の締め切りが迫った場合はPCを持参し、お孫さんが昼寝をしたときに作業を行うなどをして、両立の課題を乗り切っています。新たな挑戦 校正のプロになるために産業カウンセラー養成講座受講の動機同様、「自分のやっていることが間違っていないかを確認したい」という理由から、昨年は、校正の通信講座に自ら申し込み、校正に関する実務知識を6カ月間、体系的に学びました。自分では「完璧にできた」と思って提出したレポートも、大体が7割程度の評価だったため、気持ちを引き締める良いきっかけにもなったそうです。
校正の通信講座を修了し、証書を手にする熊野さん。「校正のプロ」として、さらなる高みを目指します。
次の目標は、「校正士認定試験」に合格し、名実ともに「校正のプロ」になること。昨年夏に手術をした脊柱管狭窄症の後遺症である下半身のしびれ、しびれ止めの薬による睡魔から、勉強に集中することができない日もあります。しかし、「勉強した結果を得たい」という気持ちが、熊野さんを奮い立たせます。熊野さんのチャレンジスピリットは、かつて、活躍を海外に広げたときと同様、さらに新しい刺激にあふれた世界に熊野さんを導いています。
終わりに: 締め切り間際には、複数の編集者から「超特急で見てください」とか「明日までにお願いします」、など乱暴な(?)要望が熊野さんに寄せられることもしばしばです。しかし、どんなときも快く引き受け、冷静に原稿をチェックしてくれる熊野さん。この懐の深さは一体どこからくるのだろう?と、今回、熊野さんを取材しつつ気になっていたのですが、先日熊野さんからのメールにあった「(長い開発途上国生活の経験上)この世の中が自分の思い通りにならないことだらけというのは身に染みついています」という言葉が、その答えなのかな、と思いました。本記事を担当した私も支部報の編集者でありますが、我々編集者にとって、熊野さんは頼れる抑え投手のような存在です。しかしながら、今回の取材を通じて、熊野さんは校正以外にも、育児サポート、お話し相手ボランティアと、あらゆる方面における「協力隊」として大忙しなことが改めて判明しました。甘え過ぎてはいけないな、と反省しております。
次回、『いまここTOKYO 46号』は1月中旬発行予定です。記事をご覧いただく会員の皆さまには、陰で大活躍をしている熊野さんを思い浮かべていただけると嬉しいです。
(広報部 関口)